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■このブログについて
いい年こいてドストエフスキー(略してドエス)を1冊も読んだことのない内縁の専業主夫が、なんとかドストエフスキーを読みきろうとする起承転結のない読書日記です。 テキストは『罪と罰』(新潮文庫版、工藤精一郎・訳)になりました。 ゆっくりちまちまやっていきます。 ときどきドエス以外もあります。 リンクフリー。著作権とかぜんぶ放棄。 ■メール ■ブックマーク (ほぼ、いろはにほへと順) 『トルニタリナイコト』 『とらぶた小説事務所』 『中くらいのしがなさ』 『過剰な人々』 『紫の季節』 『:::日々是うみうし:::』 『小学四年生日記』 『KOTOBA*Sphere』 『VOICE』 『ネコのためいき、ウマの念仏』 ■登場人物メモ ◆ラスコーリニコフ(主人公。配役、二十代のころのデ・ニーロ) ◆アリョーナ・イワーノヴナ(高利貸し(質屋?)の老婆。配役、菅井きん) ◆マルメラードフ(主人公が酒場で出会った元官吏。配役、温水洋一) ◆ナスターシャ(下宿のおしゃべりな女中。配役、光浦靖子) ◆プリヘーリヤ(主人公の母親。配役、岩下志麻) ◆ドゥーニャ(主人公の妹。配役未定) ◆ピョートル・ペトローヴィチ(ドゥーニャの婚約者。配役、堀江貴文(仮)) 最新のトラックバック
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2006年 07月 07日
ここ数日、先を読まずに考え中であります。
はたして母親はどんな気持ちであの手紙をラスコーリニコフに送ったのか、と。 もしも当の母親に訊ねることができたら、「そりゃ愛情に決まってるでしょう。あんたは本物ですか? 本物のバカですか?」なんて言い返されちゃいそうですが、ぼくにはどうしても「愛情」以外の何かがあるような気がしてならんのです。あの強迫神経症的に長ったらしい手紙を書いた理由に。 ラスコーリニコフのため、というよりも、母親の自分自身に対しての切迫した何かのためなんじゃないかって気がするんです。元官吏の長セリフ同様、あの手紙には自分の精神を落ち着けようとする作用があり、それを母親が無意識に行っているのじゃないかと、そんな気がしてならないんです。 ちょっと気になっているのは、手紙の文面にて「父親」に関して一切触れられていないことです。あれほど長々とした家族大好き! 的な手紙なのに。もしかして父親不在の家庭なのでしょうか。それともたんに手紙に出てこなかっただけでしょうか。あるいは、母親が父親の存在を忘れたがっている(もしくは恐れている)のでしょうか。 単にぼく自身が都合の悪いことには巧妙に触れないようにするするタチだからそんな見方をしてしまうのでしょうか。「3分茹でてから、いったん火を止め、粉末スープを入れる」というサッポロ一番の作り方表記を見て、なぜいったん火を止めるのか?という疑問を抱かずにはいられなかったくせに、その答えが見つからなかったために疑問から目をそらし、ラーメンを作り続けていたぼくなのです。ラスコーリニコフの母親も、おそらくは疑問を棚上げにしてサッポロ一番を作るタイプの人に思えます。(たぶん味噌味) なにか、その辺に鍵があるような。できることなら、自分なりの推測を立ててから先を読み進めたいな、なんて思ってる最中です。 #
by gabagebegobo
| 2006-07-07 08:10
| ドエス
2006年 07月 03日
自分の心に棚を作る。なんてことを信条にぼくは生きておるわけですが、というか、棚でも作らんと生きてけんわけですが、どうやら主人公ラスコーリニコフにもそんな点があるらしい。チャプター1では町の悪臭に嫌悪感を催していたくせに、このラスコーリニコフ、自分の部屋がひどく汚いようなのです。
『これ以上落ち、これ以上不潔にすることは、容易なことではなかった』(P49) しかし、ぼくの受けた印象としては、どうやら「あえて」そうしているらしい。実際、文中にも「快かった」などとも書かれています。このあたりの心理は、もしかしたら元官吏マルメラードフと同じなのかもしれません。部屋を汚すこと=罰を与えることなのではないでしょうか。つまり、自分が忌み嫌う対象と同じ地点に自分を貶める=罰、みたいな。 ただし、両者において大きく違う点は、マルメラードフは他者からの罰を望んでおり、ラスコーリニコフは自らが罰を下すという点でしょうか。ま、どちらが実践派のMかと申しますと、ラスコーリニコフに軍配が上がりそうです。やっぱ自分で垂らすロウソクって、心の準備が出来ちゃったりするじゃないですか。巧妙に二の腕の裏とか脇の下とか、もっと敏感なとことか、ダメージの大きなとこには垂らさないように出来ちゃう、みたいな。そのあたり、どうもラスコーリニコフには甘さを感じました。 そんな甘さは別の記述でも感じます。彼のもとに手紙が来るシーンです。女中から手紙が届いていることを知らされたときのラスコーリニコフの喜びようといったら! いや、その気持ち、わからないではないんです。ぼくも非常に友だちの少ないオトコですから、携帯電話の毎月の無料通話分なんか使いきったためしがないのですが、そんなぼくですから、たまーにワンギリなんかがかかってきても、その電話番号を携帯の電話帳に登録してしまったりするんです。そんな番号で電話帳のメモリーが増えることですら、うれしかったりするんです。要するにラスコーリニコフ。けっこう友だちのいないオトコなんじゃないかなあ。……なんか他人事とは思えないです。 とはいえラスコーリニコフ。あんたは悪臭撒き散らす世間を忌み嫌う、孤高なオトコじゃなかったのか? それがなんじゃ。手紙の一通で大喜びしやがって。君にはもっとパンクでいて欲しかった! 見損なったぜ、ラスコーリニコフ! ……ま、ピザのチラシくらいしかポストに届かないぼくと違って、手紙なんか届いちゃうラスコーリニコフに、ぼくが嫉妬しているだけかもしれませんが。 その手紙なんですが、ラスコーリニコフの母親からのものでした。 そしてこの母親、マルメラードフについで濃いキャラです。マルメラードフの長ゼリフ同様に、なんと文庫本17ページ分という、しかも改行なしの手紙を送りつけてくるのです。出会い系サイトで知り合ったら、一発でストーカー気質を疑われ、生理的嫌悪感を抱かれるタイプです。 で、手紙の文面から受けた彼女の性格の印象なんですが、一見キレイゴトを言うように見え、その実、金があればしっかりした人と決め付け、二度しか会ったことのない相手を娘の結婚相手として選ぶ打算的な面があり。そして、そんな結婚相手をやたらしっかりした人と言ってみたり、生活の向上(あるいは母親の生活の向上)を最大の理由として結婚する娘のことを天使だと褒めてみたりとひどく身びいきな人で、反面、自分のエリア外の者はキ○ガイ呼ばわりするという、やけに辛らつだったりする人。 中でも心配になってしまったのは、母親の見通しの甘さです。金持ってる相手と娘が結婚できそうだと思ったとたん、ラスコーリニコフに仕送りができそうだと報告するのには、思わず読んでいて心配になってしまいました。なにしろその仕送りがっできるって理由が、身元のしっかりした相手と娘が婚約したことにより、自分の信用が上がってたくさん金を借りられるようになったからなのです。キャッシュカードとか持たせちゃうとホントやばいタイプ。この母親、借りるのはいいけど、返す計画は立てているのでしょうか。 そんなこんなのことが書き連ねられた手紙を読み終え、ラスコーリニコフはどうやら精神的に不安定になってしまっているようです。その感情がどんな類のものなのかは次のチャプターを読まねば分からないのですが、おそらくは憎悪でなかろうかとぼくは推測します。ラスコーリニコフが悪臭塗れる世間に対して抱く憎悪。その全ての要素が、この母親にはあるような気がするんです。 しかしながらラスコーリニコフ。手紙の到着を興奮するほど喜んでいるわけですから、一概に母親を憎んでいるとも思えない。ここで、なるほどそうかも、と思う点がひとつ。チャプター2の終わりで、微妙に揺れ動く価値観が描写されていると思って読んだのですが、この母親に対する二面的な感情も、ラスコーリニコフの確立されきっていない価値観を表しているような気がします。 なんの条件留保もせずに全面的に愛してくれる母親。その愛には喜びを感じてはいるものの、母という存在には欺瞞を感じているラスコーリニコフ。そんな姿が見えてくる気がしました。 というわけで、チャプター3まで読了。今までのところでちょっと気になるのは、どいつもこいつも、ほとんどMかと思えるほどに罰に執心しているという点です。主人公や元官吏、そして手紙で語られるドゥーニャの勤め先夫妻だとか、なんかもう罰を受けて満たされたり喜んだりしてるような人ばっかりなんです。まあ、タイトルからして『罪と罰』ですから、ある意味正しいといえば正しいんでしょうが、今後の展開においては真性Sみたいな人も登場してくれると嬉しいです。「インスタントコーヒーはお湯を入れてから粉を入れろっつったろがっ!」みたいな理由で豪快にキレまくっちゃう人みたいなのを。 いやでもまあ、読みやすく、ストーリーに起伏があり、登場人物が面白いという印象は、依然維持されたままです。面白い! #
by gabagebegobo
| 2006-07-03 18:31
| ドエス
2006年 07月 01日
『罪と罰』いよいよ読書開始です。本日は48ページまで。
いきなり主人公に他人事とは思えぬちょいダメな感じを見つけ、共感しまくりなぼくです。 この主人公(ラスコーリニコフ)、家賃を滞納しているがために、家主であるおかみとは顔を合わせづらいと思ってます。以下はその心理描写。 『そして青年はその台所のまえを通るたびに、なんとなく重苦しい気後れを感じて、そんな自分の気持ちが恥ずかしくなり、顔をしかめるのだった』(P5より引用) ようするに、「滞納している恥ずかしさ」よりも、そんな風に感じる自分の気持ちの方が恥ずかしいという、この自意識の過剰さ! いやもう、この部分でいきなり共感させられました。 いかにもそんな自意識過剰な男らしく、彼は町の景色にただならぬ嫌悪感などを感じちゃっております。その姿は、まるで映画「タクシードライバー」のデ・ニーロって感じです。「地上の汚れを洗い流す雨はいつ降るのだ」みたいなことを呟くデ・ニーロそっくりです。以後、ぼくの脳内では、ラスコーリニコフにデ・ニーロ(二十代の頃)をキャスティングして読みすすめて行くこととします。 そんなラスコーリニコフは何やら企んでいるらしい。 『果たしておれにあれができるだろうか? いったいあれは重大なことだろうか?』(P6~7) 果たして「アレ」とは? ぼくは高校時代の自分たちの会話を思い出しました。 「マジ? 山崎のヤツ、もうアレしちゃったの?」 「ばっか。ウソに決まってんだろう。見栄はってるだけだよ」 「あ~あ、オレもアレしてみてえなあ」 「なんかよ、夏の新島行くとやり放題らしいぜ」 「そうそう! 谷崎先輩もそう言ってたぜ」 「マジかよ。でも谷崎先輩が言うなら間違いねえんだろな。……そっか新島か。夏の新島行きゃ、アレがやり放題か……くそう。バイトすんぞバイト」 ラスコーリニコフはデ・ニーロなんで、作中の「あれ」とは、たぶん夏の新島とは関係ないはずです。やはりデ・ニーロなんですから、そこには死や血の臭いがあるはず。 そんな怪しげな「あれ」を抱えた主人公は、金貸しの老婆と会った後、その金を持って居酒屋へ。そこで登場するのが、すげー濃ゆいキャラの元官吏。家の金を持ち逃げし、職をほったらかし、娘が売春で生活費を稼ぐのを黙認し、というかそれに甘え、嫁には髪の毛を持って引きずり回されるという、西村賢太作品を彷彿とさせるダメキャラです。 たとえばそのセリフの中で、自分が閣下から職を与えられたときのエピソードを語るのですが、 『わたしは、心の中で、閣下の足のちりをなめましたよ』(P34) という部分からも分かるように、いやもうその心無いことと言ったら! 心の中でって。あんたそれ実際には舐めてないって話じゃん! と突っ込まずにはいられませんでした。とはいえ、ぼく自身も、「この借りは必ず精神的にお返ししますから」などと、実際の行動は何も伴っていないような礼を言う男なので、やはり共感しまくりポイントでありました。 そのキャラがしゃべるしゃべる! 初対面の主人公に、いきなり文庫本5ページ分のセリフを、改行もなしにしゃべりまくります。それがもう、自己正当化にもならない自己正当化。どうやら彼は、他人に自分の境遇を話すことで、精神的安定を得ているらしい。ぼくにはそんな風に思えました。嫁に体罰を喰らうのも、同じ動機なのではないでしょうか。他者からの体罰によって、自分の心的欠損ないし罪悪感に帳尻あわせをしようとしているかのような。ぼくには、主人公とは正反対の男であるように思えます。主人公は持ち前の自意識過剰さから、「他者の目」による倫理を自身の拠り所とはしない男のように見えるのですが、この元官吏は、「他者の目」が非常に倫理的価値観の基準となっているような気がします。 元官吏は、その後も延々としゃべりまくり。ところが主人公は律儀にもその話を全部聞いてやり、あげく酔っ払った元官吏を自宅まで送り届けたりなんかしちゃう。そのうえ、家賃が払えず家を追い出されそうという元官吏家の事情を知り、窓枠に金を置いてきちゃったりなんかする。どうやら主人公は、敵意や悪意だけを持った若者ではなさそうです。というか、このエピソードは、主人公が持つ自分の「倫理観」に、かすかな揺れというか自信の無さを感じているという表れなのかもしれません。 ここまでで48ページ。思いのほか読みやすいですし、話の展開も起伏があり、おまけに濃ゆーいキャラ設定。想像していたよりもはるかに面白い出だしでありました。 #
by gabagebegobo
| 2006-07-01 16:46
| ドエス
2006年 06月 29日
大人になった今では、じっくりと古典を読む時間などとれそうもない。なんて嘆く方もいらっしゃる世の中で、ぼくはなんと幸福な人間なのでしょうか。このような中年になってから、のんびりとドストエフスキーを味わおうとしておるのですから。これはもう、まさにお金では買えないシアワセ! お金のない無職のぼくには、まさにぴったりなシアワセです。
そんな無職の正当化を自分に言い聞かせながら、借りてまいりましたドエスの著作。(ドストエフスキードストエフスキー言っているうち、ドストエフスキーなのかドフトエスフキーなのかゲシュタルト崩壊っぽく分からなってしまったので、以後は略して「ドエス」とします) 悩んだ末に選んだのは『罪と罰』(新潮文庫、工藤精一郎・訳)です。ホントはカラマーゾフの兄弟あたりを読破して、知り合いの実家にでも行き「君んとこって、ちょっとカラマーゾフな兄弟だよね」なんてスノッブなひけらかしをしてみたい欲求にもかられたのですが、ドエス初心者としては読みやすい分量から手堅くはじめた方がいいように思え、そのうえ、実際のぼくには気軽に実家を訪ねられる知人なんかひとりもいないものですから、そんなこんなで選択された『罪と罰』であります。 開いてみると、なんとも改行の少ないぎっしりと文字の詰まった紙面。ちょっと弱気になります。読みきるためには息抜ける本も並行させる必要があるのでは? と思いまして、一緒に『涼宮ハルヒの憂鬱』も借りてまいりました。ドエスも初体験なんですが、実はいわゆるライトノベルもこれが初体験です。 ですが「涼宮ハルヒの憂鬱」。その表紙のアニメキャラばりな女の子のイラストといったら。ぼくのような無職臭の濃い中年ヒゲが手にしているならば、それはぼくを簡単に変質者と見せてしまう強力な装置になりかねません。なもんですから、図書館カウンターの貸し出し手続きには、ドエスの下に隠すように重ねて差し出しました。 そういえば、あれは高校生のことでした。本屋で平凡パンチを買ったぼくは、同じように文芸春秋かなにかを上に重ねてレジのお姉さんに差し出したのでした。そして、なんにも聞かれていないのに、「映画エイリアンでリプリーが人造人間に雑誌を口に入れられて殺されそうになるってシーンがあるじゃないですか? あるんですよ! あの雑誌って、平凡パンチなんですよね! 知ってました!?」などとちょっとテンパッた感じに、いいわけじみたことを口走ったものでした。 そんな甘く切ない思い出は、もしかしたらぼくが勝手に捏造した記憶かも知れません。ウソ記憶だったらすいません。なんかいっつもテキトーなことばっか言っちゃってホントすいません。 なんて恥じらいまじりのちょっとした罪と罰気分に浸ることもでき、初ドエス、いよいよ準備完了であります。これから長いドエスの旅が始まるのです。旅を終えたころのぼくには、なにか人間的に劇的な変化が表れているでしょうか。同窓会などに参加すると、「うわー、○○さん、変わってないねえ!」などと喜びまんまんとした声あふれる中、「フミエダ……おまえ。全然変わってねえな……」などと、ため息にも似た声をつぶやかれるぼくであります。そんなぼくでも、ドエスの旅によって変わることができるのでしょうか。とっても楽しみです。 ……すいません。ほんとは同窓会なんか一度も行ったことがないんです。というか、呼ばれたことがないんです。なにかとウソばかりついて、ほんとすいません。 #
by gabagebegobo
| 2006-06-29 16:34
| ドエス
2006年 06月 28日
ネットで市立図書館のドストエフスキー蔵書検索をしてみました。
いきなり世界の文豪に打ちのめされました。 作者名には『ドストエフスキー』と書かれているのに、タイトルは『ドストエーフスキイ全集』。 たとえて言うならば、谷崎潤一郎さんが『谷崎潤三郎全集』という本を出すようなもんでしょうか。 その手があったとは。くそう。かっこ良すぎるぜ、ドストエフスキー。 #
by gabagebegobo
| 2006-06-28 17:25
| ドエス
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